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学生時代に住んでいた笹塚の街に十数年ぶりに引越してきた。以前住んでいた家を事情があって急遽立ち退く事になり、一時の仮住まいとして借りたこのアパートは駅の南側を流れる旧玉川上水路沿いに建てられており、窓から手を伸ばせば土手に勢いよく生えた雑草も掴めるほど水路の方に迫り出すように作られている。

段ボールの積まれた窓の無い部屋でテレビを付けて何かの映画を見ている。先日から妹を名乗る女が自分の側にいて、事あるごとに自分に触って来ようとするのを何も感じずに受け入れている。

駅前から北沢五丁目にかけて小川のように伸びた水路は、幡ヶ谷方面に行くにつれ暗渠となり塞がれる。その少し手前には大きな桜の木があって、ここで花見をしようと宮嶋が提案をしてきた。花見には他に池田と妹らしい女、そして友人が数名参加していたが誰だったのかが思い出せない。しばらくして家に忘れ物を取りに行こうとするがアパートの位置が分からず、駅から離れた場所に来てしまった。いつの間にか自分は服を来ておらず全裸で商店街の端の道をとぼとぼと歩いている。早く部屋に戻り服を着たいと思いながら焦っていると古い知人の男性が自分に声をかけてきた。

どこかで見たことがあるような気もするけれど絶対に知らない自分と同じくらいの年齢のその男性を、自分は大学時代からの知り合いで話を合わせていくうちにきっと思い出すだろうと考えながら適当に笹塚に昔住んでいたころの思い出話を話していた。

20歳位の時に仲の良かった先輩が近所に住んでいて、夜中の2時頃まで押しかけては毎晩音楽やバンドの話をした事も彼は知っていて思い出話に花を咲かせながら、自分は彼がこれで隠せと貸してくれたタオルを腰に巻き二人並んで商店街を歩いている。

彼の名字は「石毛」だったような気がしてきたけど、そんな名前の知合いはおらず、なんとなく名前を呼べないまま彼とこの辺りは懐かしいと初めて歩く通りの店を眺めながら雑談をした。彼はしきりに裸の自分に服を着せたそうにしていたが、正直服のことなどどうでもよくなっていた。

大阪環状線の高架下によく似た場所を歩いていると派手な化粧をした中年女性が時計屋から出てきて、石毛に声をかけてきた。時計屋の店主らしい女性は店の前に出ている看板を新しいものに変えたいというような話をしていた。店主と別れた後に仔細を尋ねると彼は看板広告の営業の仕事をしているんだと話をしてくれた。大学を卒業してからもずっとこの街に住んで個人店の看板を作っているのだという。

古いマーケットの奥を進んでいくと仕出しの惣菜や刺し身を売っている「鮮魚まつや」があり、部屋に帰るにはこの店を通り抜けないといけないと石毛が言う。年季の入った長渕剛のファンとして地元で知られている店員が長渕そっくりに話しかけてくるのを無視しながら店の奥へ進むといつの間にか地下水路を歩いておりそこを抜けると花見をしていた場所に戻ることができた。宮嶋と池田に石毛を紹介しようと石毛の方を振り返ると彼はいつの間にか随分離れた駅前の広場にいるのが見えて、こちらに向かって手を振っている。